ご家族 お客様インタビュー
アズハイム川越鈴木啓子様(お母様が入居)
“外出しやすい”自由度の高さも魅力。
母娘で楽しむ外食ランチ
私も友人も母の老後が目標です
95歳まで自立した生活を続けた母
2度にわたる転倒・骨折で生活が困難に
「お母さん、ここだと自由がきくしいいわね」 傍らにいるお母様にそう語りかける鈴木啓子様。 お母様は「アズハイム川越」で暮らしています。啓子様の自宅は車で10分ほどの場所にあり、週1回お母様を訪ねています。
- 啓子様
- 母は都内で暮らしていましたが、1年程前から足元がおぼつかなくなりました
お母様の若山里子様(96歳)は長男家族との2世帯住居で暮らしていました。一つ屋根の下での生活ですが、ご自身のことはご自身でこなして自立した生活を送られていました。 里子様は3年程前からデイサービスや訪問介護サービス、宅配食を1日1食利用するなど、いくつかの介護サービスを組み合わせて過ごしていたそうです。 当時の啓子様は、今は亡きご主人が友人と興したアニメーションの美術会社に勤務。忙しい日々を送る中、土曜日はお母様の様子を見に川越の自宅から東京に通っていました。 こうして元気に過ごしていたお母様ですが、夜中に自宅で転倒して肩を骨折してしまい1か月の入院を余儀なくされました。
- 啓子様
- 退院後は川越にある私の自宅に母を連れて帰りました。4カ月ほど過ごしていたのですが母は『自分の家に帰りたい』と言って自宅に戻ることになったのです
こうして都内の自宅での生活を再開した里子様ですが、入院前に利用していた訪問介護サービスは、顔なじみの介護ヘルパーではなく別の担当者に変わりました。慣れない介護ヘルパーでは心配で、啓子様は毎日のように里子様を訪ねたそうです。
- 啓子様
- 私自身、後任ができたこともあり仕事は週1回~2回になった時期でした。入院前と同じ介護事業所でしたがケアマネジャーさんは一緒でも、介護ヘルパーさんは他の方を担当したり時間が合わなかったりで、別の介護ヘルパーさんがいらしてました。そんな母が心配で毎日通ったのです
ところが里子様を2度目の骨折が襲います。その日は弟様が近くで里子様の様子を見ていましたが、弟様がふと目を離したすきに、洗濯物を取り込もうとしていた里子様が転倒。しりもちをついて、仙骨、尾てい骨、恥骨と下半身の3か所を骨折してしまいました。
- 啓子様
- 病院では2カ月以上は入院できると聞いていたのに10日程でほかの病院を探してくださいと言われてしまいました。まさか私の母がそう言われるとは思っていなかったので戸惑いました。その後、別の病院に移りましたが、ホームページでは立派なリハビリ室もあってとても良い雰囲気でしたが、実際は寝たきりの人ばかり。母以外トイレに起きる人がいないしリハビリ室も誰一人使っていない、暗い雰囲気の病院でした
そんなこともあって退院を決意。里子様は自宅から接骨院に毎日通いました。その通院の甲斐もあって4カ月後には歩けるまでに回復されました。
- 啓子様
- それでもこれからの生活に不安があったので、近所に住む私の友人から『アズハイム川越』を教えてもらいこちらでお世話になることになりました
啓子様は『アズハイム川越』のほかに、サービス付き高齢者向け住宅も見学しましたが、アパート式の住まいという印象で里子様には合わないなと感じたそうです。
- 啓子様
- お部屋にはナースコールがついていますが母はボタンを押すことができません。それでもセンサーやスタッフさんが24時間いるので安心してお任せできます
かねてから啓子様親子は、里子様の将来の住まいについて話し合っており里子様ご自身が「ゆくゆくは老人ホームで生活をしたい」と希望していたそうです。 ところが、通院先の病院からそのまま弟様の運転で「アズハイム川越」に入居した里子様は、「遠くに連れてこられた」と不満を口にしたのです。
- 啓子様
- その日は事故で高速が使えずに遠回りして『アズハイム川越』に到着しました。それもあって遠いところに連れてこられたと感じたのでしょう。母がしっかりしていた時から老人ホームへの入居については話していたのですが忘れてしまったようです。母は3日程とんがっていましたね
「アズハイム川越」の入居に際し、啓子様がこだわったポイントの一つが「自由に外出ができるかどうか」という点です。
- 啓子様
- 母はサバの味噌煮や塩焼きが苦手です。こちらでは食事メニューをあらかじめいただけるので、母が苦手なメニューの日は連れ出して外食を楽しみます。私としては土曜日が一番ゆっくりできるのですが、母の好物は土曜日に出ることが多いですね
戦争も大水害も経験した気丈な母
若山里子様は魚河岸店で仲買を営むご両親の一人娘として東京・築地で生まれました。子供の頃は日比谷公園が遊び場で、銀座の道の真ん中をおままごとのゴザを引っ張りながら日比谷公園へ行くような元気な女の子だったそうです。 その後、ご主人と結婚して長女の啓子様を出産。戦況の悪化から里子様のお父様のご実家がある岩手・一関に2人で疎開しました。ご主人が戦争から帰るまで啓子様と一関で生活を続けましたが、1947年に「カスリン台風」、1948年には「アイオン台風」と一関地方は2年続けて大水害に見舞われました。
- 啓子様
- 当時私は4才。小高い場所に家がありましたが畳の縁から水が噴き出してきて。恐怖から私は泣き出しました。すると私を乗せた畳が船のように浮いたのです。ふもとにある本家や親せきの家々は屋根まで水に浸かる被害に遭いました
啓子様はそのときの里子様の気丈な様子も幼いながらはっきりと記憶しているそうです。
- 啓子様
- 母はタンスから衣類を出して風呂敷に包み川のように流れている道に足を取られながらも私をおぶって避難しました。自宅からさらに小高い場所に避難したのですが、見慣れたいつもの街並みが一面海のようになっていました
この2度にわたる天災はもうこりごりと里子様一家は東京での生活を再スタートしました。その後、次女、長男と子宝に恵まれ、朝早くから魚河岸で働くご主人とともに温かな家庭を築かれました。
- 啓子様
- 母は家事のほかに内職をしたりしてよく働いていました。私と妹の服はすべて母の手作りです。池袋駅前にあったキンカ堂に生地を買いに行ってはあんみつを食べて帰ったのも良い思い出です。半面、父は謡やビリヤードがとても上手な人でした
多彩な趣味を持つお父様と家事や育児に大忙しのお母様の様子を語る啓子様の傍らで、里子様は笑顔でこう話します。
- 啓子様
- 好きなことをしてあんなに幸せな主人はいなかったと思いますよ。私も大事にしました
里子様のご主人は7年前に亡くなりましたが、車いすの生活を7年間続けていたそうです。当時80歳を過ぎていた里子様が、ご主人が乗る車いすを押して外に頻繁に出かけていました。
- 啓子様
- 母は父の面倒をすべて見ていました。車いすも私は上手に押せないのですが、母は慣れたもので父を連れてよく出かけていました。父はテレビが大好きで、囲碁、将棋、競馬、競輪、野球、サッカーとあらゆる番組を観ていました
こうして7年にわたり車いすのご主人の介護を続けた里子様ですが、里子様ご自身もくも膜下出血で倒れました。くも膜下出血により、脳にたまる水を逃がすシャント手術を経て元気に回復されたそうです。
- 啓子様
- 戦争をくぐっているから母は強いです。昨年は2度の骨折と転倒による怪我で3回も入院しましたが全部立ち直っています。回復も早くて医師からは『スーパーおばあちゃんだね』と言われたほどです。83歳まで私とイタリア旅行もした母ですから
目標は母。
95歳まで自立した生活が理想
同じ世代のご友人と、自分たちの老後について話をする機会が増えたという啓子様。95歳を過ぎて老人ホームでの生活を始めたお母様の老後が理想だと話されます。
- 啓子様
- 私の友人も近所の方も、『お母さんを目標にするわ』と言ってくださいます。介護サービスを利用しながらでも95歳まで自宅で頑張って生活して、95歳を過ぎたら老人ホームでの生活に切り替える。そうすると経済的にも計算がしやすいでしょう
「アズハイム川越」での生活もまもなく半年を迎える里子様。途中、冬物のコートを取りに里子様をともない都内の実家を訪れた啓子様はこの日の出来事を振り返ります。
- 啓子様
- 母と妹と私と3人で部屋にいたのですが母が3人分のお茶をお盆に乗せて歩いてきたのです。『危ない』って思わず大きな声を出してしまいました。母はなんでもできると思ってやってしまうのです。この時に、やっぱり一人で置いておけないなと思いました
里子様が「アズハイム川越」に入居された当初は毎日のように通った啓子様ですが、安心を得た今、1週間に一度お母様のもとを訪れて、外食を楽しんだり景色を見に出掛けたりするそうです。 これからは美しい桜の季節。幼い頃から見慣れた飛鳥山の桜を観にお母様と出掛けることを楽しみにされています。